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戦国期 |
ここ小倉の地は、古来交通・軍事上の要衝の地である為、各時代を通じて幾多の抗争の場となり、殊に南北朝期には中・小豪族の抗争が繰り返され、戦国期には島津・大友・毛利氏の抗争の場となり、特に大友宗麒はこの小倉の地を一村一家残すことなく焼き払ったと伝う。しかし、「本社」は庶民の天神信仰に支えられ、その度に再建された。 |
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西暦
1602年〜1661年 |
その後戦国の動乱もおさまり、慶長七年(1602年)一月細川忠興が小倉城築城の砌り、一小祠となっていた「本社」を瀧本院と共に配祠し、城下民の信仰をすすめ、さらに寛永九年(1632年)二月小笠原忠真が十五万石の藩主として入城後、夫人永貞院の尊崇特に厚く、若君(二代藩主忠雄)の養育に学問の神・菅公の教訓を以って当たったことにより、忠真は慶安元年(1648年)二月に社殿を修築し、神宝を納め、公式に城下民子女の「教育祈願所」と定め、次で寛文元年(1661年)二月には拝殿を造築し、「威徳寺」の尊号と偏額を奉納し、この年九月廿五日には特に盛大な祭典を執行した。「二十五の菩薩引連れ、出雲に乗りて、さき立つ神まつりかな。忠真」と、和歌の奉納があり、以来連歌の奉納の例となった。 |
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1678年 |
貞享四年(1678年)境内の中に「浮鷺の池」を造り、神苑を整え、十一面観世音菩薩を左側に安置し、改めて国主となった二代藩主忠雄は、幼少よりの成育の願解をなし、以来「若君」の養育祈願は累代に及び、城下民もこれに習い、子女のすこやかな成長を願う城下民の「養育守護」の神としても信仰を集めた。
当時、神社においては春の例祭りは「菜の花祭り」と称され、菜の花の生花を捧げる行事が行なわれ、城下民の子弟は手習師匠に引率され、礼儀正しい参拝がなされた、と伝えられ、夏祭りは「千燈明(せんとうみょう)祭り」ー別名(願かけ燈明)(万願燈明)ーと称され、境内は「浮鷺の池」を中心に「数百の燈灯の明りで昼の如く、参拝者で境内は身動も出来ぬ程なり。」と記録に残されている。 |
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1866年〜1892年 |
幕末に至り、慶応二年(1866年)八月一日の戦火ーこれを小倉では「御変動」と称すーで小倉で町共々焼失したことに加え、明治初年の「神佛分離の制」の混乱で、神苑の維持も困難となり、御神体は一時、仲津郡国分村(現在の京都郡国分寺)に遷座されたが、明治二十五年(1892年)九月、当時の初代小倉市長吉沢直行・初代企救郡長津田維寧ほか十数名の熱心な請願をきっかけとして、全小倉の氏子・信徒の手により旧社地に立派に再建され(神社棟札記)、さらに現社殿は昭和三十七年に再建された。(この時、神苑の敷地の関係で「浮鷺の池」は埋められた。) |
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この様に、ここ小倉の地に天神島に千数十年前当時の村人の手により奉られて以来、神社は現在まで小倉の地に生きた人々と共にその盛衰を経て来た。
神社に残る鳥居・燈籠・玉垣等は、近世以降のものとしてもこの社を通じて氏子崇敬者の古い祖先の子孫養育守護の念が想わることであろう。 |